昭和40年01月06日 朝の御理解



 三代金光様が、私共がお取次を願いますと、「はい、はい」と「はい」の一言でお取次を下さった。それでやはり、おかげを受けたんですね。「はい」のやはいわば声色の中からでもおかげを受けたとか、または厳しかったとか、何か心に改まらなきゃおれない様なもの、有難くおもわにゃ受けられないもの「はい、はい」の中から私どもは感じたんですね。そして言うなら、事ひとつ何かお伺いいたしますと、実に簡潔に、その、お答えを下さるんですね。その簡潔なお答えが分かりません。
 ただいまのことはどういう意味の事かでしょうか、というて、かえってまたお伺いすると、それをまた、少し砕いて、分かるように教えて下さるですね。私は、ね、あの事がね、すこし、こう分からせて頂いてきた気がするんです。・・?夕べは、壮年会でございましたが、熱心に椛目の重大な問題を中心にして、信心の共励がございました。もう昨日は【 】なきゃならんと思うですね。私だから、皆さん共励をなさるならばです、共励のたんびんに、「ハァー、今日はおかげ頂いた。
 このこと・・?心の中に開けるものがあった」というくらいな共励をなさらなきゃ駄目だと思うね。例えば一つの例を申しますと、あの、ある青年の方が、実意ということのお伺いされたんですね。ただお礼を申し上げた時は、「はい、はい」と。だからそれから、「これから、どのような在り方にならせてもらったら」とお伺いしたら、「実意になられたらよい」。なら「実意とはどのような事でございましょうか」と言うてお伺いしたら、「わがままと横着をしなければよいでしょう」とこう仰った。
 と言うようにですね、伺う事に対してです、求めてくる事に対して、簡潔にお与えになったという事ですね。私はもうあの意味ではほんとに、私共の思いと金光様のそれとは、天と地ほどの開きがあるには違いないのですけれども、あのことが【 】そんな気がいたします最近の流行歌ですかね。あれはお座敷小唄か何かていうあれが流行った。よく私は知りませんけれども、一番の歌詞にこういうような歌詞があります。
 [富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町(ぽんと町)に降る雪も、雪に変わりはないけれど、解けて流れりゃ皆おなじ]というようなそんな確か文句だったと思います。確かに富士の高嶺に降る雪もです、京都先斗町というのは、あの舞子さんたちが大変多い、あの町なんです。いわば雪に変わりはありませんけれども、ね、例えば富士の高嶺に降る白雪は、なんとはなしに何か、崇高なというか、気高いという感じです。
 そすと、京都先斗町に降る雪は、雪は同じであっても、いよいよ人間に対する情緒を感じさせます。ね。問題はおかげさえ頂けばよい、問題は助かりさえすればよい、という事においては変わりはなくてもです、そんなに違うんですね。今日、私はそこの所を分からせて頂いたきがするんです。椛目の場合はね、その、もうなんとはなしにもう情緒がめんめんとしておるという事ですね。お取次が。もう実に、情緒がたっぷりだという事ですね。そして、そのてがたのもとに?欠けておったという事ですね。
ね、そりゃ成程、助かればいいのである。夕べも、夕べの御理解を中心にしてから、昨夜の共励をさせて頂いたんですけれども、「この方は人が助かる事さえ出来ればよい」というのは、あれは教祖の神様の専売特許じゃないという事。教祖の神様のご精神をです、やはり取次のものがそれを頂いて、「この方は人が助かりさえすればよいのである」という精神のもとに、お取次をさせて頂かなければならないという事。
これは、お取次者だけのことではない、信奉者の全部がです、「人が助かる事さえ出来れば」という精神をもっての、信心にならなければならないという、そういう事が、昨日の御理解だったんです。それでどうでしょうか皆さん、ほんとに最近の皆さんの信心の中にですたい、「人が助かる事さえ出来ればよい」というような気持ちがあるだろうか、という事です。みんなが「ない」て。
 だから、ないだけでは済まされんから、何故そういう心が湧いてこんのであろうか、十年も十五年も信心を続けておって、そういう心が育たんというのは、どういう訳だろうかと。そこに焦点を置いてです、めいめい信心を練ってかなければいけないのじゃないでしょうかと言うて、私は話させて頂いたことです。そうでしょうが。真心といい、親切といい、無条件の奉仕といい、力を受けてといい、こう言うけれども、その力が、無条件の奉仕が、ね、真心が、親切がどこへ持って行かれるかという事ですよ。
 そういうようなものを身に付けていきよる。そういうようなものを身に付けて行きよる、その身に付けて行きよるそれがどこへ現されよるかという事なんです。ね。そこに私は豊かな包容性、又は自分の身は犠牲にしてでも「人が助かる事さえ出来れば」と言ったような、まあかりやすく言うならある方はある方を導かれるために、ひとつき間定期券を久留米から椛目まで買うて、その方に切符をあげ、お供えされましたです。
 もう十何年になりますけれども、お供えした方は、現在もう亡くなって、居られませんけれども、やはりその方は現在、信心が続いております。例えば、もう「人が助かる事さえ出来れば」。私は自分が助かった喜びをです、やはり本当に、こう、人に伝えていくところの親切とか、真心とか、無条件の奉仕と言ったようなものが皆さんの心の中に欠けておるならばです、最近の御理解を借って言うならば、「獅子心中の虫」と言わなければならんのじゃなかろうかという事。
 そういう様なものが、椛目の裏にのさばっておったんでは相済まん、という気持ちにならせて頂いてそういうものに取り組んで、それを取り除かせてもらいそして何故有難くなれんのか、何故「人が助かる事さえ出来れば」と言うような精神が、高度な精神が自分たちの心の中に育たないか、という事をです、私はひとつのまあ悩みとするなら、悩みとするような信心が欲しいね、と言うてお話した事でした。ね。
 昨日、そういうお話の中に、古賀先生が活発な発表をいたしておりました。私はもう、その事にどうぞ、今日おかげを頂いたというのはそのことなんです。というのはですね、「先生、最近私は、あの、お取次を願わない。お願いをしないというのはです、お願いをすると、先生が必ず、先生自身のペースに私を持っていこうとなさるから、それが私は怖い」とこう言うす。成程そう言えば、古賀先生、この頃お取次ならない。私はそう頂いてから、今日の金光様のそれを感じたんですよ。
 ハァー、そういう<例が>椛目には、たくっさんあるからなんですよ。まあ一番具体的に申しますならですね、ここの菊栄会です。ま、ここでは、菊栄会といえば、まあ、もうほんとに私の信心をある意味では、よく知っておる人たちであり、先生の信心に<ついて行きたいというその念も誰よりも強い人たちである。私を思うて下さるという事も誰よりも強い人たちばっかりの集いなんです。その菊栄会は。
 その菊栄会の連中がです、古賀先生とおんっなじものを、持っておるという事なんですね。文男さんにおいてしかり。正義さんにおいてしかり。久保山茂さんにおいてしかりなんですね。ね。お取次を願い、願いたくはあるんだけれども、お取次ぎを願いよったら、先生のペースに引き込まれる。それが怖いんですよ、あの人たちゃ。けれども、私は思うんですね。けれども、あの人たちはあの人たちなりに、おかげを頂いておるから、長い目で見ておる訳です。
しかし、昨日、先生のそのことを聞いてから、そういう例が、いくらでもあります、椛目には。ね。こういう事をお取次願ったらです、「そりゃ、あんた、こういう信心ばせにゃこて」。例えば、子供がです、勉強を習いにきた。そして、その事は教えるとは教えるばってん、ね、「日頃、勉強しとらんから、そげな事になるばい。これから、日に一時間ずつ、勉強しなさい」て、ぐらいな事言われるのが怖い訳なんです。
 ですから、もう出来るならば、自分で心の中にお願いをさせて頂いて、自分なりの修行をさせてもろうて、それでやはりおかげを受けておる、という事実がある人はです、私が長い目を持って見ておるとこういう事にもなる訳なんです。みんなそうなんです。古賀先生なんかも、やっぱりそうなんです。ところがここに一つ問題があるです、ねえ。例えば、茂さんにしろ、正義さんにしろ、文男さんにしろです、その人たちの信心、修行によって、それなりのおかげを受けておるという事。
だから私は長い目をもって見ておられるのだけれども、古賀先生の場合は違うと、私は思う。ね。私が、おかげを受けておらない事実を、目の前に日々見ておるもんですから、「これじゃぁいかん。これじゃぁいかん」と思うから、「私のペースに乗らなければ、おかげは頂けん」とこう私が思う。ちょっとの事でしたけれども、「ここで修行するからにはです、ね、あんたの信心は間違いないけれども、私の信心は、より信心が間違いないという事を思い込まなければ、椛目で信心は出来んよ」て私は申しました。
 「あんたの信心も間違いがない。けれども、私の信心はもっと間違いがない。そこには、私の場合には実証的なものがあろうが」と私が。「あなたの場合は実証がなかろうがと。私の場合にはおかげという実証があろうが。だから、ですからおかげを頂かせるためには、今度の例えば、泣いても、私のお取次にこうやって連れ込んでこなければいけない」といった様なものを、言うなら。
 私にとってはいとやさしゅう言いよるんだけれども、古賀先生にとってはそれが術無いのであり、また怖いのでありというような事を、昨日赤裸々にこう発表してました。こりゃ古賀先生だけの事ではありません。みなさんの場合もそうです。ね。自分でおかげを受けなければならない場合はです、例えば今申しますように、金光様のように「はい、はい」だけではいけない場合があるという事です。けれどもこれからは私は一つどuでも(笑)、金光様じゃないけれども「はい、はい」でおかげ頂くように。
 お取次、忌憚のない例えば、正義んでも文男さんでも、赤裸々なほんとな事をお取次願うようになってくるんじゃなかろうかと、私は昨日からずっと、ほんなこて考えた。私が自分のペースにこうやって引き込みさえしなければ、「ああそう、そういうところに問題があるのか」と言うて、それから私お取次させて頂くだけ。そして、おかげを頂かせて、お取次させて頂くだけ。ね。そこにもう少し求めてくるならば少し与えよう。もっともっと求めた、もっと具体的に与えよう。
 私は今日そういう風に、今朝、私は腹を決めました。ね。そういう例えば、信心をもって、ね、これが「富士の雪嶺《高嶺》に降る雪」と言ったようなお取次になるんじゃなかろうかと私は思うんです。これは椛目の情緒というものはです、ね、一遍に、その、椛目の情緒そのものに、みんなが魅せられて参ってくる人すらがあるのでございますから。ね、これはこれとしておいてです、例えば、その、自分のペースに引き込まれる事に危険を感じておるような人たちにはです。
 私は、いわば気高いほうのお取次、意味でのお取次をさせて頂こう。そして求めてくる時には少し与えよう。もっともっと求めてくる時には、もっと多く与えよう。問題は「解けて流れればみんな同じだ」という、いわば助かるという事においては変わりはないのですから。皆さん今朝の御理解を頂いてそう思われませんですか。椛目のいうならお取次というか、御理解というか確かに「京都先斗町に降る雪」のような感じが御座いますですね。もう情緒がめんめんとしておりますもん。椛目の場合は。
だから、それに魅せられて、いわば椛目通いをしておる人たちも、沢山ありますからね。それで信心が段々進んでくるとですたい、こりゃもう、先生いうならもう先生になんでんかんでんお取次を願いよるとです、こりゃもう金光様の先生にならにゃいかんとじゃなかろうか、というような<危惧の念>を持っておるんですね。文男さんなもう間違いなし、それを持っておるです。あんまりしたこと出てこんといかんとですもんね。その代わりこの人たちゃ自分でです、ちゃぁんと自分のペースを持っとります。
 そして間違いのない修行をしよる証拠に、例えば実証的におかげを受けていきよるです。これは正義さんにおいても今私が申します二、三の人の場合なんかは。昨日朝の御祈念の中にも、ちょっと申しましたように、先生が古賀先生が私とちょっと交流しだすと、すぐ神様からお知らせを頂く。それというのも私が感じておるように先生自身は実感していないと感じるのです。「ハァ成程先生が通いよるけんお知らせ頂きよると」とは思っていないだろうけれども、私はそれをほんとに感ずるわけなんですね。
 そして、あの、昨日は私が忘れとりましたから、皆さんに申しませんでしたけれども、『よしの久(ひさし)』と頂いておるんですね。<名前を>。「よしの」とは平仮名で、「ひさし」とは久留米の「久(く)」ですね。これを字でこう頂いとるんですね。やさしゅうやさしゅうま、平仮名で頂いた訳なんです。そのことはどういう意味だろうかと思うて、私、【 】「どげんじゃったね」と私言うたら「『よしの久』と頂きました。『ひさし』というだけは、漢字で頂きました」と言うのですね。
 「よしの」という事は「吉野山」の「よしの」を頂かにゃならんでしょうね。やはりいわば、何て言うですか、なだらかな、一つの修行という事です。例えば、桜井先生のような修行が、古賀先生に求めて出来るはずはないと。「古賀先生、あんたは吉野山の程度の修行させてもらわにゃいけん」という事なんです。「久」というのは、これは「く」と読まなきゃいけないでしょうね。久留米の「く」だからこれは、「苦」であり、又は、それは修行に通じる事であるという事である、事なんです。そして次に、頂くことがです、[吉野山 踏み迷うても 花の中]と頂きました。
 「先生がわからない自分がある。けれどもですどこであっても私の祈りの圏内だという、私の祈りというものを、私の信心というものを信用されたらです、例えば自分がわからんなりでも五里霧中であっても、やはり吉野山に踏み迷うておっても、花の中であるという事になったら、先生楽に修行が出来るんじゃないかねえ。そりゃ僕がわからんと言うけれども、わからんなりにでも良いじゃないかね」と話したことです。
 これなんか実に情緒めんめんたる御理解でしょう。椛目はだいたいが、これなんですものねえ。けれどもんなら、これが理解ができないならばです、もう私ひとつ今度は、その「先斗町の雪」ではなくて「富士の高嶺に降る雪」のお取次をさせて頂かなければならん、ためにはです、古賀先生自身がです、ね、文男さんのそれ、いわば、正義さんのそれの様にです、そのほんとに間違いのないペースに自分の信心をもってきてです、そして「ハァーおかげ頂きよる。あれでおかげさえ頂いていければ、私も長い目で見ていけれる」という安心が出来るのじゃないかと、こう思うのですよ。
 本人もおかげ頂きゃぁ、ね、必ず私のところのペースに入ってしまわなくても、ね。そこんところを、私はおかげ頂いていかなければいけないと思う。私は今日を境に、そういう素晴らしい事をわからせて頂いた。ハハァ椛目も気高いいわゆる「富士の高嶺に降る雪」的なお取次が椛目で出来てなかったなあ。もうあまりにも噛んで含めるようなです、ね、そして分からせなければおかんと言うて、強引なまでにわからせておけんというものですが、かえって相手に怖いものを感じさせておったという感じです。
 そこで皆さんが、お取次がどんな人でも、どんな場合でも、お取次が願えれるようにです、私は「はい、はい」という事で、お取次をさせて頂こうと思うんです。そしていうならば、そこにです、ね、何か求めるものがあったならば、求めてきて下されば、それに少し与えたいと思う。もっと求めてみえるならば、もっとそれを具体的にお伝えさせて頂きたいと思う。だから怖いならば、それだけで結構だという事です。それでおかげだけは頂けれるように、私はお取次させて頂こうと。
 そういう意味で、椛目の今度の、今日を境にですね、お取次の内容というのでしょうか、私の信心内容がですね、こりゃ段々ひとつ、気高いほうの、「富士の雪嶺《高嶺》に降る雪」の意味あいでのお取次をです、させて頂くようになったら、こりゃおかげ頂くかもしれんなあ、こりゃむしろ、私がどんどん引っ張っていくよりも、むしろ、かえって向こうのほうから、ついてくるようなおかげになって来やせんかと、心密かに楽しみを感じておる訳なんです。私の心の上に、その、昨日の壮年部会の共励会においてです、私、このようなおかげを頂いたという事です。ね。
 ですから皆さんも、信心の共励をなさるならです、「ハァー、今度の共励会では、これをひとつ、わからせて頂いた」ま、言うならば、負うた子に教えられる、というような事ですね。今日、古賀先生のその発言から、私が感じとった事なのですから。けれども、それが共励会なのですねえ、やはり。ね。皆さんも、やはり共励をなさるたんべんにです、「ハァ今日はここのところを分かった」と。一歩ずつ、その前進していく、登っていけれる、おかげを頂いてもらわなければならんと思うんでございますね。おかげ頂かなければいけません。